タントラでは、すべてのものは特定の周波数を有する振動音と見なす。それを視覚的に表したものがヤントラ=曼陀羅(まんだら)であり、宇宙あるいは神を象徴する。曼陀羅(まんだら)は三神三界を表した「生命の樹」の象徴である。そして、聴覚的なものがマントラ=真言(しんごん)である。
リシが保持してきたタントラは、チベット密教やヒンズー教のタントラよりも古く、インダス文明からの口頭伝承による本来のタントラ=原始タントラである。
このタントラは人体に喩えられるため、誤って解釈すると、ダルマを踏み外して無意味な肉体修行を行ったり、カーマに堕ちる。ダルマとはタントラの奥義を求めて神に近づくことであり、カーマとは男女の性愛である。
「生命の樹」に右と左があるように、タントラにも右道(うどう)と左道(さどう)がある。右道タントラはダクシナカラと言い、徹底的に禁欲を説く。深い瞑想を主体に梵我一如(ぼんがいちにょ)を目指すハタ・ヨーガは、ダクシナカラが基である。
しかし、本来の解釈が成されていないため、肉体改造を基本とした神秘思想となっている。梵我一如(ぼんがいちにょ)、神人合一(しんじんごういつ)を達成することにより不死の体が得られ、思い通りに肉体を消したり現れたりすることができ、透視や予知も可能になると信じる。つまり、仙人である。ハタ・ヨーガは強制的な肉体改造により、これを達成しようとする(悟りを開こうとする)が、非常に危険な行為である。このような肉体改造は神経を麻痺させ、幻覚を生む。やっている本人は、現実との区別が付かないため、恐怖のカーリーに会った後、シヴァに会うことができた、などという幻覚を信じてしまう。それは単に、本人の記憶がそのような光景を見させているに過ぎない。これは、例えば臨死体験者の経験談で、仏教徒は三途の川を見て、キリスト教徒は天使の集まりを見るのと同じことである。
ある者は、手っ取り早く幻覚を生じさせるために、幻覚剤を使用する。神の酒ソーマは、毒キノコであるベニテングダケから抽出したものである。幻覚剤を使ってお告げをしたりする口寄せやシャーマンなどは、如何にも愚かな連中である。
左道タントラはヴァーマカラと言い、性愛を徹底的に追及する快楽主義である。カーマは性愛指南書「カーマ・スートラ」として有名であり、多くの者たちが左道に堕ちた。カーマ最大のものがカジュラホ寺院の一面に彫られているエロティックな男女交歓像であり、神殿売春が主体だった寺院である。
・サーンキヤ:この世を精神と物質の二元論で捉える。この2つの相克(そうこく)により人間は苦悩する。それ故、解脱のためには、精神と物質がまったく別のものであることを自覚する必要があると説く。
・ヨーガ:サーンキヤ哲学の中心に神を据えた。自我の欲望を滅し、宇宙と一体となる実践的システムを作り上げた。
・ミーマーンサー:祭祀儀礼の解釈。
・ヴェーダーンタ:ヴェーダを重視し、ウパニシャッド哲学の解釈を推進。
・ヴァイシェーシカ:自然哲学。
・ニヤーヤ:論理学。
原始タントラの直系とも言えるのが、サーンキヤ哲学とヨーガ哲学である。サーンキヤ哲学に於ける精神と物質は世界を生み出す原理であるが故に、精神原理(プルシャ)、物質原理(プラクリティ)と言う。プルシャは絶対神のことではなく、霊我とも言われるように、あくまでも個人的な自我の上にある存在のことである。陰陽で表すならば、プルシャが陽、プラクリティが陰であり、プルシャは上向きの三角形、プラクリティは下向きの三角形で象徴される。
難しそうな話だが、簡単に言えばインダスのカバラは左道に堕ちやすい、ということで、これは創造神イナンナが性愛に溺れたからである。そして、イナンナはインダスを疎かにしたので、文明が十分に花開かなかった。つまり、知識が十分ではなく、誤解を生じやすかった。



