レバノンのバールベックの神殿跡の多角形の石積み

レバノンのバールベックの神殿跡の多角形の石積み--------------------------------------------------

 2000トンもあるバールベックの巨石もアヌンナキによって作られたが、同じくレバノンの東部にあるバールベックの神殿跡も、アヌンナキの科学技術によって作られた。ここにはジュピター神殿・バッカス神殿があり、その両方に多角形の石積みが見られる。また柱などに見られる細かく作り込んだ装飾も、アヌンナキの芸術である。
 バールベックの祭神はジュピター・ビーナス・バッカスで、それはアヌンナキのエンリル、イナンナ、エンキに当たる。

 

佐賀県の巨石パークとバールベックの巨石

佐賀県の巨石パークとバールベックの巨石-------------------------------------------------------------

 佐賀県の巨石パークにも綺麗な形とは言えないが、多角形の石積みがあり、またそこには巨石が数多く存在する。その中の巨石は、隙間なく積まれている。

 中東レバノンの東部のバールベックには、この巨石パークの御座石とよく似た「バールベックの巨石」が横たわっている。重さは最大2000トンと見積もられている。これもアヌンナキのテクノロジーである。

奈良県明日香村はアヌンナキの街

奈良県明日香村はアヌンナキの街------------------------------------------------------------------------


 この明日香村にある石舞台古墳にも、多角形の部分が見られる。

 明日香村にある岩屋山古墳にも同様の多角形の石積みが見られ、全体的にここの石積みにも隙間がない。

 カッバーラで使用される図象の一つである生命の樹を元に作られた酒船石。この石は地図として著名な地名を酒船石の丸の中に当てはめても、ピッタリと重なることがある。カッバーラはアヌンナキであるニンギシュジッダが創始者であり、多角形の石積みもニンギシュジッダによるものである。カッバーラは「神から伝授された知恵」や「思想体系」というようなものであり、ユダヤ教、仏教における密教など、各宗教にもその考え方は見られる。

 また明日香村には、爬虫類人の姿をした像が見られる。メソポタミアのシュメールでも、よく似た爬虫類の姿に変身したイナンナ像が発見されている。

 メソポタミアで発見された像と同じような手を組んで座る像も、明日香村より見つかっている。

 明日香村には亀石が存在するが、それはアヌンナキのエンキのシンボルである。

縄文時代の円形の生活空間

縄文時代の円形の生活空間--------------------------------------------------------------------------------

 日本列島では、非常に直感的なセンスを持った人々によって、現代人の想像をはるかに上回る、整然とした自然界との調和文明が完成されていた。彼らは宇宙の本質を直感によって把握しており、それを数百人規模の小都市がそれぞれ正円形になるような配置によって表し、それが集まった全体の配置も正円形になる完全な計画都市文明を開花させていた。それは、彼らがMUと呼んだ偉大なる大自然の母なる力を受容するために必要な構造であった。
 彼らの住居そのものも円形を基本に設計されており、その中央には、冬至の朝に東門の方から光が差し込むように聖なる中心が配置されていた。こうした円形構造の全体が、人間の本質である霊に影響力を持つことを彼らは知っていたからである。後の時代の縄文遺跡が円形であるのも、この高度な計画都市文明のあり方を踏襲(とうしゅう)していたからである。現代の日本人の大黒柱の神聖概念は、そのわずかな痕跡である。
 日本の縄文遺跡は村全体が円形に配置されており、その中央に祭りの場があったことが研究者の指摘でわかっている。それは整然とした美しい配置であり、一つ一つの家がちょうどみんなで手を取り合って円を作った時のように、全体にも円形で配置されていた。そして質素な家の一つひとつも、すべて円形で美しく形作られていた。家も村も計画的に円形に作られているのは明らかであった。人々が集まる時も、円形に集まるビジョンが見え、同時にその周囲に漂う空気が現代の町とはまったく違う、やわらかで優しい気に満ちていた。

 現代人は初歩段階として、人々が円形に集まるとき、現代人のように直線状に対面する時とは違う、それとは異なった意識が形成されることを認識する必要がある。まだ理解されていないが、人間の潜在意識は他のどんなことよりも、空間によって決定されるのである。空間とは自分達の意識の母体である。すべての意識というものは、空間から生み出される。現代人は物を中心に物を作るが、太古の祖先は、空間に合わせて物を作り、村を作った。人間という存在の偉大な点は、その空間を変容させる力を持つことにある。空間の把握は意識の把握であり、空間を把握するものは意識をも把握する。

 空間と自分との関係をわかりやすく、意識レベルで説明する。人と人とが向かい合い、直線的な関係にある時、相手と自分という相対的な意識が形成されやすい。それは潜在意識に二元的認識構造を植えつけることになる。だが、人々が円的空間を形作る時、相対意識よりも人間の本質的な共鳴性をより増幅させやすくなる。人と人とが円形に集まり、すべての人々が円形の中央に体を向けるとき、隣に座る人々はみな、同一の対象へと向かう共感する人として意識される。
 こうした形でのレベルが自分達に与える潜在意識への影響は、言葉による意識の形成よりもはるかに深く、潜在意識の根本の領域を形作るものである。なぜならそれは、人間の心の世界は宇宙と同質の構造を持ち、それによって成り立っているからである。
 現代人は、平面に描かれた図形などに神秘的な働きを求めたりしているが、空間の持つ力は、それとは桁違いに根本的なものであることを知る必要がある。人間の祖先たちはそれを実際の生活に用いていた。空間と一つになると、人々の魂も一つに結ばれ、その集合した霊の焦点はその中央で一つになる。その共感された意識を持ちながら人々は調和のあるつながりを実現し、深い魂の結びつきを実現させた。
 若者たちは、隣に並ぶ長老たちの所作から無意識のうちにすべてを学んだ。これらは教えることなく共感的に伝えられ、自分の隣に自分と同じように並ぶ何人もの人々を、彼らは自分とつながる連続する仲間として意識していた。人間の祖先のこの円形空間の場は、極めて高度な共感意識による社会を生み出すために、不可欠な基本的条件であった。
 ほんの1ミリの角度のずれが、1キロ先では何十メートルものずれをもたらすように、それが直線状か円形状かの違いが生み出すものは、現代人にはわずかな違いにしか思えなくても、人類文化の決定的な違いをもたらすことを、人間ははるかな太古に認識したのである。その違いは宇宙の陰陽性を象徴するもので、すべては場、つまり空間によって決まる。この叡智のルーツは、前文明における人間の祖先の叡智にある。

 この理解が進むほど、現代の社会はそれとは正反対の直線的な構造の社会であることがわかる。現代人は、直線意識のエネルギーの持つ象徴文化の中で育ち、生活している。そのために宇宙領域とは同調しにくいバリアー(壁、障害物)のような性質が、人々の中に形作られてしまっている。子供たちは学校で大半の時間、みんな同一方向に向いて座り、先生と対面して育つ。すべては直線ライン上に意識が向かい合っている。それは子供たちの育ち方だけではなく、大人になってからも同じである。劇場の公演でも、演技者と観客は直線的関係であるし、オフィスでもやはり机は対面する形で並べられ、一つのライン上で向かい合っている。住居の中もほとんどが直線的に作られており、街の構造も直線である。
 この直線空間か、円形空間かの決定的違いは、意識的、無意識的にかかわらず、中心を共有する意識を持てるかどうかである。すべてに中心が存在するこの宇宙の構造と同じ意識を、一人一人が育てることができるかどうかにあるのである。
 

ツラン文明から縄文時代の富士王朝の始まり

ツラン文明から縄文時代の富士王朝の始まり----------------------------------------------------------

 大洪水の後、半神半人ジウスドラ(ノア)などの生き延びた一団の一部は、アララト山から中央アジアのツラン平原に辿り着く。そしてそこから東北にある天山(テンシャン)山脈の西南麓に王都を築いた。しかし時が経ち、その土地が王都としてふさわしくなくなったので、日本列島の富士山麓へ遷都を決意し、一団は海を、一団は陸を東進して日本列島に渡来することになる。そして中央アジアのツラン平原からツラン文明がユーラシア大陸各地に、農業とともに宇宙観、世界観、そしてそれにもとづく学術と道徳、人道の秩序の体系が伝播されていく。この一団には、祭司王の半神半人ジウスドラ(ノア)やシャーマンなどがいた。このツラン文明は、大洪水前から人々が存在していた文明ではあった。

 中央アジアの高原地帯にいた聖の一団が東に向かい、日本列島に到着して、ここに人類の正統文明を立てた。聖とは、宇宙の真理を認識し、かつそれを表現することばを生み出し、会得した人々の意味である。このツラン(天の子)民族がツラン平原から北回りで日本に移住して、縄文文明を生み出した。そしてツラン平原から南下した仲間達が、インダス川やメソポタミアにシュメール住み着いていった。またその道中で分かれた集団が中国の黄河文明や長江文明を築いていく。


 縄文人は、荘厳(そうごん)なる宮殿をつくらず、美麗なる礼服で飾らず、外観の浮華を自慢しなかった。日本民族にとって歩むべき道とは、人間の営み(人工)が、自然を破壊してはならない、自然と調和し、人工がむしろ自然をより豊かに、より美しく繁栄させるものでなくてはならない。そのような方向に人間が進んでいく時、それを「道」と名づけるのである。人間の営為(人工)が、このように積み重ねられてゆくありさまを、「文明」と賞賛するのである。これこそ、ツラン文明→縄文日本人→日本民族、と受け継がれた根本概念である。こうしてツラン文明を正統に継承したのは縄文文明であった。

 2度目の大洪水の後、ツラン民族によるツラン文明の原型は成立しており、後のシュメール文明はこのツラン文明の南下した一分派である。「ツラン」とはシュメール語で「天の子、天の保持者、天の帯」を意味し、ツラン民族とはツラン平原で発祥し、ウラル・アルタイ語族に属し、北方アジア民族とも呼ばれ、言語はウラル・アルタイ系の膠着語(こうちゃくご:立語の中国語、屈折語のインド・ゲルマン語と文法が根本的に違う)を語り、ツランから発してユーラシア大陸全域に棲みついた民族で、北ツラン族と南ツラン族に分け、北ツラン族をウラル・アルタイ語族と称した。

北ツラン族 : ツングース、モンゴル、トルコ・タタール、フィン・ウゴール、サモエード
南ツラン族 : タマル(タミール語族)、ボオチア(チベット・ブータン語族)、タイ(シャム)、マライ

 縄文の日本で富士王朝を建国したのは、天山(テンシャン)山脈西南麓に王都を築いた大洪水の生き残りの人々であった。日本列島の富士山麓へ遷都を決意した彼らの話はこうである。なお、ここでは和名を用いているが、すべてアヌンナキの血を濃く受け継ぐ子孫達である。

 天地開闢(てんちかいびゃく=大洪水の後)のとき、天之峰火雄神(あめのほほおのかみ=ノア)が生まれた。この神の王朝は7代30万日(約820年)を経て、天の世と呼ばれた。次に天之御中主(あめのみなかぬし=アヌ王)神から15代67万5000日(約1850年)続いた王朝は、天之御中世(あめのみなかよ)と称された。その最後の神皇が高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)で、国土が八方に広がったため、七人の皇子をそれぞれの地方に派遣することにした。第一皇子・有能氏は大陸の大中原にとどまり大アジア州の皇帝となり、第二皇子・朝天氏は大陸の東部を、第三皇子・南陽氏は大陸の南部を、第四皇子・清賢氏は大陸の西部を、第五皇子・農立氏(イナンナ)は東海の島を、第六皇子・農永氏は大陸の北部を、そして末子の第七皇子・農佐氏は父のもとにとどまった。
 ところが、派遣された皇子のうち第五皇子の農立氏(イナンナ)だけは、「日の本なる海原に世に二つなき蓬莱山(ほうらいさん:富士山)のある蓬萊国(ほうらいこく:日本)」に行ったまま、1万7500日(約48年)経っても帰ってこなかった。高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)は「連絡がないのは、その土地が連絡することを忘れるほど素晴らしいからに違いない」と考え、第七皇子・農佐氏を指揮官に任じ、神后ともども3500余神を率いて、住み慣れた王都を捨て、蓬萊国(ほうらいこく:日本)に遷都することにした。
 高皇産霊神(たかみむすびのかみ=エンキ)の一行は、天山(テンシャン)山脈の麓を出発して、現在のシルクロードを陸路東進、朝鮮半島から日本の能登半島に上陸した。その後、瀬戸内海沿岸を経て、渥美(あつみ)半島に達すると、東に富士山が見えたので、再び船に乗って海路東進し、田子の浦に再上陸。富士山の麓に王朝を築いた。


 一方、先に蓬萊国(ほうらいこく:日本)を目指していた第五皇子・農立氏(のちの国常立尊”くにとこたちのみこと”=イナンナ)は、天山(テンシャン)山脈を出た後、南に向かいインドから南岸沿いに東進、海人と交流しながら船で島々を這うようにして海路沖縄にたどり着いた。そこから船で日本列島に渡り、瀬戸内海の淡路島にとどまり、蓬莱山(ほうらいさん:富士山)の所在を求めていた。そこへ父皇(エンキ)と弟たちが自分の後を追って日本列島へ渡ってきたことを知り、富士山の麓で弟と再会した。
 兄弟はともに協力して新しい国作りを誓い合った。そして最初に天降った兄の農立氏(イナンナ)は国常立尊(くにとこたちのみこと=イナンナ)と名前を改め、「高天ヶ原の世」の第一代神皇に即位するとともに、「東西分治の制」を定めて西を統治することにした。日本の本来の最高神はスサノオことイナンナである。弟の農佐氏は、国狭槌尊(くにさつちのみこと)と名前を改めて第二代神皇となり、富士山麓を拠点にして「高天ヶ原」を治めた。

 最後の世界的洪水の後、最初に文明が開け、その文明を世界に広げたのが日本である。神の道とは、すなわち自然と調和して生きる術であり、自然の力を利用する術である。世界に派遣された日本の皇子たちは、自分達の都を「すがすがしい」という意味を込めてスガ、あるいはスカと名付けた。つまりスカ、スガに接頭語のアやナを付けて、アスカ(飛鳥)やナスカなどの地名になった。
 このスガという地名の由来については古事記の出雲神話にも記されている。スサノオがヤマタノオロチを退治した後、クシナダヒメとの新居の宮を造る土地を出雲の国に捜したとき、現在の島根県大原郡大東町(現在は雲南市に合併編入)須賀に気分がすがすがしくなる土地を見つけ、そこに新居の宮を造ったので須賀と呼ばれるようになったとしている。

 奈良県の明日香村には、爬虫類人の姿をしたアヌンナキの像が見られる。後のメソポタミアのシュメールでも、よく似た爬虫類の姿に変身したイナンナ像が発見されている。

 またメソポタミアで発見される像と同じような手を組んで座る像も、明日香村より見つかっている。

 明日香村には亀石が存在するが、それはアヌンナキのエンキのシンボルである。

 下記の地図のように、現在の日本にはイナンナを表した多産のシンボルとされるヴィーナス像や、無数の巨石文化が存在している。奈良県の石舞台古墳もその一つだが、これらの巨石建造物は、この富士王朝時代のアヌンナキによって作られた。

 アララト山のノアの箱船のツラン民族がツラン平原から広がっていった後、紀元前9000年~前7000年前までの間に、

1.中国大陸の全域に拡散して漢族、苗族(ミャオぞく)となり
2.日本列島にも到達して縄文文化人となり
3.タイに入って東北部のパンチェン文化人となり
4.インド西北部から西部に入ってインダス人となり
5.メソポタミアに入ってシュメール人となり、
6.中央アジア、西方アジア、西方ヨーロッパ方面に向かって各種のウラル・アルタイ系、ツラン系の民族になる。

シュメールの神官が認識していた1611年周期の文明

シュメールの神官が認識していた1611年周期の文明------------------------------------------------

 シュメールの最高神官たちは「世界史は東から西に向かって進む」ということを理解していた。これは地図上では、東から西への移動に見えるが、実際の地球においてはこの現象は西回りに回転するスピンなのである。このスピンが単なる偶然の現象ではなく正確な法則である証明は、東から西にスピンするその時間と空間の関係にある。そこにシュメール人が聖なるリズムと呼んだ、規則正しい地球のバイオリズムが潜んでいる。これを認識していたので、日本の皇族もシュメールへやってきた。近年、世界中でもっとも優勢な立場にあった国から、人類の歴史を振り返ってみるとそれが理解できる。
 近年までもっとも優勢な立場にあった国はアメリカである。このアメリカの歴史を遡ると、イギリスからスタートしており、アメリカ繁栄以前はアメリカの東にあるイギリスが優勢な文明であった。たしかに東に戻ることになる。そしてイギリス以前は、その東のヨーロッパが強い勢力だった。そのヨーロッパ文明の前は、さらに東のギリシャ文明に遡る。そのギリシャ文明以前は、さらに東に位置するエジプトやメソポタミアである。歴史の焦点は、たしかに東へと行き着く。
 これは常に一定する速度のスピンであり、正確には、1611年間に、経度にして22.5度ほど、聖なるリズムの焦点は西側にスピンする。この現象の謎を解くには、これがスピンリズムである点を理解する必要がある。宇宙の天体やミクロ宇宙のすべてがスピンであるように、これはある意味で物理現象なのである。
 まさしく人類の歴史は1611年を一単位として、その節目ごとに22.5度ずつ西に文明極点が移動し、その結果新たな最優勢な文明がその位置で開花している。しかもその精度は、0.1度の狂いもない。

 これは西洋の歴史だが、反対に東洋では、あたかも素粒子と反素粒子のように、西洋側のスピンを鏡に映したかのような、これとはまったく正反対のもう一つのスピンが実在することをシュメールの最高神官たち知っていた。この法則は東洋の歴史にもあてはまり、具体的にそれは、1611年に22.5度東回りに移動するスピンである。実際にはこれは、東洋でもなければ西洋でもなく、互いに相反する一対(いっつい)のスピンなのである。つまり両者のスピンはすべての生命に男女があるように、互いに相互作用で進展していくのであり、相対性の原理に基づく生命のリズムなのである。
 近年、アジアでもっとも優位にあり、最初に近代化に成功した国は日本である。しかし日本がアジアをリードした歴史はごく浅い。日本は1500年もの間、中国から諸文化を学び続けて発展した国である。唐の時代にも中国は、日本にとって進んだ国だっただけではなく、世界最高峰の文明国として世界各地から使者が訪れていた。しかしこの中国も、さらに千数百年遡れば、仏教や建築技術など、日本が中国から学ぼうとした知識のほとんどは、インドやその他の西側諸国から学んだものであることがわかる。
 さらに、高度な哲学思想を生み出した古代インド(ガンジス文明)も、さらに遡ること千数百年前には、それより西側のインダス文明を基礎に成立している。さらに、インダス以前の時代は、インダスに多大な影響を与えたと言われるシュメールの時代となる。つまりこの時代には、現在はイラクであるこの地が、地球上でもっとも進んだ文明の地帯であったのである。

 シュメール文明の後に起こった文明は、あのインダス文明であった。この文明の誕生の地を計測してみると、それはこのエリドゥから東に、正確に22.5度スピンした位置にある。この文明の誕生は、シュメール文明から1611年後を基点としており、地球上を東回りに16/1スピンした位置からスタートした。インダス文明の完成は、約4600年ほど前と推定されており、そのスタート年代はシュメール文明から数えて1611年後にあたる年代だった。
 地球といわれるこの巨大な生命は一種のバイオリズムを持っており、その最活性化のポイントは、1611年間に22.5度、つまり地球上を16/1角度分だけ、円周上を移行するのである。


 当時モヘンジョダロには荘厳な建物が数々存在し、見事なまでに美しかった。現代の東京の雑然とした景色とはまったく違い、都市全体が芸術作品のように整然としていた。建物はレンガ造りで、シュメールのジッグラトのように、現代の建物にはない温かい重量感があった。そしてそこにはシュメール同様に、さまざまな人種の人々がおり、ここも国際的な中心都市のようであった。
 インダスは、日本の都市のように無計画に作られた都市ではなく、それは綿密に計画されており、それを計画したのはシュメールの叡智を引き継いだ人々である。彼らは建物が人間の意識に与える影響を完全に理解しており、人間の意識がより自然に働くように、彼らが神と呼んだ目に見えない力が、その場にいるだけで顕(あらわ)される構造というものを理解していた。
 このような意識への影響は、単に建物の構造だけでなく、材質にもある。彼らはレンガを作る際にも、そうした観点に基づいて、人間の意識によい影響を与える最高の材質のレンガを作ったのである。道路もすべてが整然と規則的に並び、美しさを感じさせた。その安らぎを感じさせる整然とした並びは、日本の平安京と似ているものであった。平安京も、日本では珍しい計画都市であった。事実、日本の平安京は、このインダスの文明に歴史的な繋がりがあったのである。

 日本に現存する聖なるシンボル「十六菊花紋」のもっとも古いものは、平安京の朝堂院(ちょうどういん)で発掘されたものであったが、この十六菊花紋は、現在の天皇家のものよりデザイン上の比率がシュメールのものにより近く、ほとんど同じである。平安京は、秦(はた)氏の力によって事実上作られたものだが、秦氏は、その数10万という日本史上最大最強の渡来して来た人々であり、西方の地からやってきた。その意味は、秦氏がインダスから来たということではなく、両者の文化的ルーツが同じだということである。

 インダス文明のようにバランスのとれた文明でも、やはり寿命というものがあり、それは人間の死と同じである。どんなに優れた人間にも死は等しくやってくる。そして死を迎える時期には、その人の欠点が露呈されやすいように、文明もまたそうなのである。
 現代文明は今、死と再生の時に差しかかっている。この死と再生の節目は、人類を裁くためや苦しめるためにあるのでは決してない。この節目を通り越すことによって、人類は新たな展開と創造に出会うのである。人類の文明は約800年が「昼の時」である。文明の誕生から800年が経過すると、生命の老化と同じく衰退へと向かう。
 これはインダス文明においても同じで、文明の誕生から800年後の約4000年前から、インダスはアーリア人たちの勢力に圧迫されるようになった。

 インダスの次に栄えた東洋の地といえば、インドのガンジス文明である。ガンジス文明は日本人にも仏教のルーツとして馴染みが深い。日本が中国から輸入したその文明の中枢とも言える仏教や、それに伴うさまざまな学問は、言うまでもなくその昔天竺(てんじく)と言われたインドから輸入されたものである。インドのガンジス川流域を中心に栄えたのでガンジス文明とも言われている。
 ガンジス文明は、インダス文明の誕生の地であるモヘンジョダロから22.5度東に花開いた。ウパニシャッドなどのインドの高度な哲学には、インダスの感性が引き継がれている。現代人がよく知るヨガは、その典型である。
 この文明についても法則通りであり、古代インド文明を開いたアーリア人たちがインドに入ったのが3100年ほど前であり、バラモンの確立が3000年前で、「聖なるリズム」通りである。さらに地図で計測すると、モヘンジョダロから22.5度東は、東経90.0度であり、それはガンジスの真中心であり、年代も場所も完璧に一致している。もしもすべての歴史がこのパターンで進行していたとするならば、もはやそれは偶然とは言えないのである。

 現代人は西洋文明が優勢の時代に育っているので、初めから西洋の文明のほうが進んでいたと思いがちであるが、実はそうではない。彼らが人類の頂点に立つのは1000年代をかなり過ぎてからである。それ以前は中国が世界の頂点として君臨しており、その文化を学びに世界中から人々が押し寄せていた。日本の遣唐使などもその一例である。
 この年代も場所も「法則」通りである。ガンジスの中心から22.5度東の位置は、唐の真中心であるだけでなく、その位置には洛陽(らくよう)があった。洛陽は、中国のすべての歴史の中でもっとも長く都が置かれていた中国の中心地であった。

 さらに次の1600年後は、西暦400年+1600年(正確には1611年)で、現代である。そして問題の地球の脈動ポイントは、112.5度+135.0度である。この東経135.0度は日本の標準時ライン、つまり日本の真中心である。
 このラインは、明石と淡路島を貫いているが、たとえば135.02度にわずかずれるだけで、淡路島からは完全にはずれてしまう。それほどの精度で日本の真中心なのである。日本とシュメールの都市エリドゥとは90度の関係にある。
 正確には1995年が大地の脈動の年であり、それは阪神・淡路大震災があった年である。この1995年に起きた地震の震源地は、淡路島北部の東経135.0度であった。それは日本の真中心の135.0度なのである。
 人類は、自分たちの意志で歴史というものを築いてきたと信じてきたが、その自分たちの意志さえも、もっと大きな何かに導かれているということである。


 シュメールの最高神官は、この西回りと東回りのスピンが、規則正しい相互作用で生じていると知っていた。この東西のスピンは、互いに正反対の相反する時間的関係で結ばれている。正反対の時間とは、スピンが相反するように時間も正反するのである。
 1611年をサイクルとする人類の文明は、その約半分である800年の文明の生命を有して誕生する。これは昼と夜のようなものである。東回りスピンは1611年の内の最初の800年が昼、つまり活動期であり、後の800年は夜、つまり活動が停滞する睡眠期である。
 西回りスピンはこれと正反して、最初の800年が睡眠期で、後の800年が昼の活動期になる。現代までの資本主義文明の繁栄は、この西回りスピンの活動期が終わった夜の晩期である。東西スピンの活動期の交替は、今から800年前に起きているので、西暦1200年頃のことである。それは強大な勢力を持った中国が一夜の夢のごとくに消え去り、モンゴルの勢力に圧倒され、征服されてしまうのが1271年である。一方西洋文明では、イギリス人としての最初の王であるエドワード一世の即位が1272年である。そしてヨーロッパは活動期に入り、イギリスの全盛期へと発展してゆく。それはまさに、昼と夜のように入れ替わっている。

 西回りスピンの1周期は、ロンドンから22.5度東であり、それは東経22.5度である。このラインはギリシャ文明の真中心であり、後のローマ文明へと続く文明の脈動ポイントである。現代の西洋文明のスタートを1200年とすると、1サイクル前は1611年前であるから、紀元前400年頃ということになる。あの有名なギリシャの哲学者ソクラテスは、紀元前400年頃にギリシャ哲学の楚を築き、それが西洋哲学へと発展してゆく。現代の科学文明の柱が西洋哲学にあるように、まだ科学の生まれていないこの時代の文明の柱は西洋哲学にあった。それに並行するようにローマの文明が発展していく。そしてその位置も、東経22.5度はギリシャの真中心であり、同時にそれはギリシャの中心都市ミケーネとスパルタを縦断している。それはまるで計算通りに敷かれたレールの上を、人類の歴史は進行しているかのようである。

ピラミッドの破壊

ピラミッドの破壊-------------------------------------------------------------------------------------------

 マルドゥクがいなくなった後、ニヌルタ(アラム・ムル)は再びシャフトからエクル(ピラミッド)に入った。水平な廊下を通って、彼はエクル(ピラミッド)の外陰部へ行った。その東の壁で、“運命の石板”が赤く輝いていた。「この力が、私に殺しの追跡をさせるのだ!」と叫び、自分の副官たちに破壊するよう命じた。ニヌルタ(アラム・ムル)は引き返し、大回廊を抜けて最上部の部屋に行った。くり抜いたチェストにエクル(ピラミッド)の心臓が鼓動しており、5つの区画によって増幅されていた。ニヌルタ(アラム・ムル)はそれを指令杖で叩き壊した。また、方角を決定するググ石を運び出し、自分の選んだ場所に持って行くよう指示した。
 大回廊を歩きながら、ニヌルタは27組のニビルのクリスタル(水晶)を調べた。マルドゥクとの戦いで多くは傷ついていたが、無傷のものもあった。丸ごと残っているものは取り除き、他のものはビームで粉砕した。ニヌルタ(アラム・ムル)は外に出ると、“黒い鳥”で舞い上がった。そして、エクル(ピラミッド)の頂上石は敵の象徴そのものだったので、武器で揺さぶってぐらつかせ、地面に落として粉々に砕いた。「これで、マルドゥクの恐怖は永久に終わった!」とニヌルタ(アラム・ムル)は勝ち誇って宣言した。「あなたはアヌのようだ!」と集まったアヌンナキは賞賛した。

 無能となった灯台の代わりに、“二輪戦車の場所”近くの山が選ばれ、クリスタル(水晶)が再配置された。その山はマシュ山、“至高の空のバーク船”と呼ばれた。ニヌルタ(アラム・ムル)にはエンリルの地位が与えられ、あらゆる土地でエンリルの代理となった。また、ヒマラヤ杉の山々にある“着陸場所”の支配権はイシュクルに与えられた。そこから南と東の土地、イギギとその子孫が広まっている場所はナンナルに与えられた。“二輪戦車の場所”と“地球の臍(へそ)エルサレム”の司令官はウツとなった。“2つの峡谷の土地(エジプト)”はニンギシュジッダに支配権が与えられたが、イナンナが反対し、亡くなったドゥムジの継承権を主張した。そして、自分自身の支配権をエンリルとエンキに要求した。
 どうしたら彼女の要求を満たすことができるのか、アヌンナキは熟考した。それと共に、どのように人類に対して威厳を保ち続け、どのようにして多数の者を少数の者に服従させるのか、アヌと意見を交わした。アヌは配偶者アンツと地球を来訪することにした。

 マルドゥクとの戦い後、ニヌルタ(アラム・ムル)によってピラミッド内部と冠石は破壊され、現在のようにもぬけの殻となった。彼の乗り物“黒い鳥”は現在のステルス機を思わせると同時に、導きの鳥“烏(からす)”の原型である。

 ウツは“二輪戦車の場所”以外に“地球の臍(へそ)エルサレム”も任された。ならば、エルサレムに最も縁の深い「神」はウツとなる。ウツのシンボルは太陽だが、それは粘土板では六芒星として描かれている。エルサレムはユダヤの聖地。ユダヤの最も重要な王はダビデ。ダビデの星と言われているのが六芒星である。